一般例会No.197 播磨・本龍野から城山(きのやま)(亀山 458m)例会記録
概要 『揖保川の西に南北に連なる眺望100パーセントの稜線。城山はその中心にある山城です。播磨一円を支配した
赤松一族の興亡を巡る。ハイキング+歴史探訪シリーズNo.15。』

日時 2010年6月6日(日)
天候 晴れ
担当 紀伊埜本節雄・柴田弘子 
集合 JR大阪駅 8:00(8:15発新快速・姫路行乗車ホーム中央)
行程 大阪駅⇒姫路⇒姫新線・本龍野駅〜鶏籠山〜的場山〜城山〜見張岩〜東觜崎(ひがしはしさき)駅⇒
姫路⇒大阪
参加者 大西征四郎、仙谷経一郎、青木義雄、西田保、小椋勝久、小椋美佐、木恵美子、紀伊埜本博美、
田中智子、川崎喜美子、寄川都美子、寺島直子、辻角ますみ、奥中種雄、横内まみね、笠松マサヱ、
津川洋子、藤田喜久江、和田都子、内杉安繁 ・・・ 計22名

9:50 姫新線本竜野駅
CLより今日の行動の内容説明

10:15 城下町に入るとレトロな街並みに感嘆
この家屋は某信用金庫川西支店として現業中の店舗

10:20 格子戸が旧街道の雰囲気を一層引き立てる

10:20 旧家を思わせるたたずまい木造
3階建て 龍野市観光課によると普通の民家とか

10:25 やはり城攻めは大手門(現龍野城)より
城内を通過 鶏籠山の山城(旧竜野城)を目指す

10:25 新緑の大手門
我こそは…口上を陳べたくなる

10:44 山城の土塁跡 激しい攻防があったのか

10:50 山城 本丸付近の遺構 当時の面影を偲ぶ

10:55 山城 本丸跡 遺構の数々に
感激しリーダーの話を聞く

11:23 山城の搦手口にあたる両見坂 見事な石燈

12:34 的場山を経由して
主稜線を北に縦走を開始する

13:26 尾根伝いに目的地
亀山(城山)458mを望む

14:12 城山城跡 赤松屋敷跡 鬱蒼とした杉木立
の中に一門の霊を慰む三基墓がある 二度目の昼食

14:56 亀山(城山)山頂
播州平野から瀬戸内海を望む

15:21 城山城跡からの下山
昔の兵糧道を沢伝いに下りる

15:23 見張り岩より竜野城下を一望

16:10 山麓の登山口に寂しくただひとつある石碑

16:54 JR東嘴崎駅到着 歴史探訪にしては
ハードな山行にリーダーからのねぎらいを受ける。

 今日も上々の天気である。JR姫新線本竜野駅から、現存する龍野城(実は大手門一帯の白壁)の裏庭を通り抜けて
旧龍野城跡の鶏籠山に登る。鬱蒼とした森の中から、いきなりの急登である。東面に揖保川を控え、文字通り鳥籠を伏
せた様なこの山は、標高218mとは思えぬ手ごたえである。山頂に近付くほどに、両側が急峻になり、狭い尾根上に
2段3段と人手による築城当時の削平地が現れる。そこには簡素な表示板が差し立ててあり、そのさりげない様がいか
にもうれしい。この山城(旧城)は江戸期に入ったあと、赤松氏の手を離れ、山麓の現龍野城として移築されてしまう
のである。そのあとおそらく手付かずのまま放置されたのであろうが、それでも二の丸、本丸への連ながりなど見事に
残っており、搦め手にはめずらしく竪堀の跡もある。それだけ当時は堅牢な造りであったのであろう。
 赤松氏最後の城主となる赤松広英(別名斎村政広)は、この山城から宿敵山名氏に取って代り、あの名城播但竹田城
の主へと躍進するのだが、のちに徳川家康の不興を買い、自刃して果てることになる。が奇しくもそれは、その後廃城
となる竹田城にとっても最後の城主となった、運命の人である。
 両見峠(旧龍野城搦手口)にいったん下り、的場山へはまた急登である。次いで主稜は真北に転進するが、その先に
時代は前後するが、同じ赤松氏の城山城がある。しかし標高400mほどの小さな峰続きとはいえ、登下降がけっこう
深く、思わぬ苦行となる。幸い眺望はすばらしい。右眼下には常に揖保川が併流し、細幅の尾根道は歩いているだけで
快適な気分が満ちてくる。雑木林のなか日陰と日照が交互に現れると、そこはまさしく里山の世界である。播磨の山々
もまた素晴らしいの一言だ。ハイキング+歴史探訪の冥利とはこのことである。
 かなりくたびれた頃、やっと城山(キノヤマ)城跡に着いた。亀山(キノヤマ)山頂(458m)の肩にある窪地が
城中にあった赤松屋敷の跡である。あろうことか、そこだけが妙に異質な、昼尚暗き杉木立である。疲れと空腹で全員
べったり座り込んで、2度目の昼食を摂る。今回から小椋勝久君の講話が新しく登場した。題して「嘉吉の乱」 赤松
満祐は赤松家全盛期の4代目である。播磨、美作、備前の三カ国を有する守護大名であったが、故あって時の将軍、足
利義教を自邸に招き、突如謀殺するのである。満祐は自邸を焼き払い、この城山城にとって返し、山名宗全以下2万余
の幕府追討軍を迎え撃つのだが、理あらず遂に最期は妻子共々一族六十九人がこの地に自害して果てるのである。そう、
この地とは我々がべったり座り込んでいた場所である。気が付けば目の前の小さな窪みに、供養塔「三基墓」がひっそ
りと苔むしていた。何と身震いするような歴史冥加ではないか。
 下山路は下野田に至るかつての兵糧道を下る。谷沿いの路は荒れ放題、だがこれもまた我々にとっては言い知れぬ想
いを抱きながらのプロムナードである。ハイキング+歴史探訪、また次回も元気で楽しみましょう。
                             記:紀伊埜本節雄   写真:小椋勝久、大西征四郎

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