一般例会No.210 播州・上月(こうづき)城跡を巡る 例会記録
概要 『尼子一族の初登場です。播州上月城は尼子勝久、山中鹿之助らが尼子再興の悲願を託した山城です。
歴史好きにはたまらない聖地です。ハイキング+歴史探訪シリーズNo.16』

日時 2010年10月10日(日)
天候 晴れ
担当 紀伊埜本節雄、小椋勝久
集合 JR大阪駅 7:30(7:45発 姫路行新快速発車ホーム)
行程 大阪駅⇒姫路⇒JR姫新線・上月駅〜上月城跡〜上月資料館〜上月駅⇒姫路⇒大阪16:43着
参加者 本郷善之助、仙谷経一郎、奥中種雄、神阪洋子、津川洋子、寄川都美子、紀伊埜本博美 ・・・ 計9名

北面から見た上月城 小さな突起にすぎないが
10指に余る周辺の山城を総轄した司令塔だ

10:40 城下にある大庄家 維新の志士も出たという
昨年の佐用大水害で5棟の土蔵のうち3棟が流失した

10:45 旧大手門前にある上月城
歴史資料館 広い駐車場は閑散として
いる 館内もまだ整っていないようだ

赤松氏開祖として名高い
「赤松円心公廟所」への道しるべ 

ひっそりと佇む山中幸盛(鹿之助)の碑 

尼子勝久公没後400年の碑 
 
10:55 寄延川沿いの搦手口 搦手
こそ城攻防の決め手1577〜78年と
攻守入れ替わり2度の落城に合う
 
目高集落(赤松一族の末裔か大きな屋敷が
散在する)この位置から廃道に入る
11:40 お墓には朝霧氏とある
 
11:50 植林帯の踏み跡からやがて若干の薮漕ぎ 

12:50 廃道を抜け尾根筋の遊歩道にで出る
いかにも急ごしらえの遊歩道?道標も逆一方方向のみ  

13:10 本来の搦手道に合流した 
P254が小沢をへだてた南後方に在る
尾根通しと錯覚していた複雑な地形 

攻防の跡を偲ばせる遺構の数々 本丸も近い 

13:30 本丸跡に到着 赤松政範ほか
共に討ち死にした主たる武将の名が側面
裏面にびっしりと刻まれている

飾り気のない本丸跡で O君のミニ講話を聴く

14:20 幾多の将兵が駆け登ったで
あろう大手門跡に到着 しばし戦国期を
体験した思い お疲れ様でした

 昨夜来の強い雨も、「上月」の駅ではすでに晴れていた。姫路から姫新線で78分、片道の列車で2時間半も掛けてきたのだか
ら、空模様も味方してくれたのであろう。しかし駅前を出発したのは既に10時30分を過ぎていた。
国道373号を南に向かい、寄延川沿いを西に入ると草むらに半ば埋まった小さな石柱に出会う。「赤松円心公廟所」と読めるが、
かなり古い道しるべだ。その先に真新しい上月城歴史資料館がある。上月城跡の大手道はその正面になるが、そこはもうただの山
道で、往年を偲ぶものはない。入口のすぐ横に尼子勝久、山中鹿之助、その他尼子家臣の上月城戦没者の墓が並んでいる。157
8年 尼子家再興の夢も空しく、この城で毛利方の大軍を前に2ヶ月に及ぶ篭城の末、家臣の命を救うため切腹して果てた尼子勝
久。山中鹿之助は毛利軍に捕らえられ、備中高松城に護送される途中、阿井の渡し場で謀殺されてしまう。悲しい結末である。
 さて私たちの予定は、山裾を西に寄延川に沿って搦手道から登ることになっていたが、資料館のパンフに、さらに西に進み上月
城の裏手のP339m付近から新しく遊歩道が拓かれたとある。で、さっそくそれに乗ることにした。なにしろ今日の歩行時間は
2時間の予定だから渡りに船というものだ。ところが1時間ばかり歩いて、目高集落に来てもそれらしい道標はない。当惑したが、
それではやむなしと国土地理院の破線路を頼りに少し強引に(廃道を利用して)尾根筋に出た。そこはちょうど林道と遊歩道の交
差したところである。とんだ大搦手廻りに出たものだ。あとは本丸まで約1.5キロ、30〜40分ほどの平坦な尾根筋である。
だが、歩きながらこの地形の複雑なことに気が付いた。初期の上月城は寄延川を挟んだ北の対岸にあったという。その後この位置
に再構築されたようだが、その訳はおそらく、城の搦手の補強と水場の確保が容易なこの地形に着目したからだろう。とはいえ皮
肉にもこの城の落城を早めたのは、秀吉軍にその水場を押さえられたことだという。戦勝後、秀吉はこの水ノ手を切った生駒某に
多大の報奨を与えている。それだけこの城の水場は複雑かつ貴重なものだったに違いない。これは実際にこの場を歩いてみたもの
の実感である。
 上月城本丸跡には13時30分に到着した。さわやかな秋の風が、一枚の重ね着で過ごせる快適な日和で、気分は上々である。
片隅に、城主赤松政範ほか三基の古い供養碑が苔むしていた。石碑には、先の尼子勝久から半年ばかり前の、1577年12月、
この上月城を本拠とした赤松一族が秀吉軍の猛攻に曝され、そのとき討ち死した主たる武将の名前がびっしりと刻まれている。本
丸跡の周囲は雑木に覆われて、残念ながら眺望はない。だが1/2万5千を数枚接ぎ合わせた私特製の地図を広げると、周囲の状
況は目の当たりに広がってくる。東正面の眼下には、北から南へさながら大蛇のうねるごとき佐用川の屈曲が、天然の要害となっ
て横たわっている。南に目をやると、すぐ下流には千種川が東から南へ並列した形で合流している。しかもこの二本の暴れ川に沿
って、数キロ間隔に10指にあまる山城が一族同盟者によって守られていたのである。これはもう戦慄するような強固な防衛線で
ある。そしてその司令塔が上月城である。とても上月城ひとつをとって云々することはできない。歴史家でもなんでもない私の勝
手気ままな想像も、これでいて結構楽しいものである。
 ついでながら、2万の大軍で押し寄せた羽柴秀吉軍は、次々と支城を崩し遂に最後となった上月城の周囲に、3重の木柵を厳重
に張り巡らしたうえで、城内一兵残さず惨殺したそうである。赤松政範以下主たる武将はことごとく自刃したが許さず、残る婦女
子はすべて国境に遺骸を晒し、見せしめにされたと言われている。それだけ秀吉軍もこの戦いに苦戦したのであろう。尼子勝久、
山中鹿之助主従が、この城を秀吉から拝領したのはその直後のことある。
 城跡の一角に腰を下ろし、今日のサブ担当を務めるO君のミニ講話「山中鹿之助論」を聴く。尼子家の再興を図り、すでに仏門
にあった僅か14歳の勝久を擁立し、その後10年にわたって七難八苦を重ねたというが、果たしてそれは主君への忠義と言える
だろうか。鹿之助の隠された野望に翻弄された、尼子勝久こそ哀れだと話をしてくれた。さもあろう、O君の名は正に勝久公と同
名である。情が移るというものだろう。話は尽きない、ここはまさに歴史好きにはたまらないメッカである。
 下山後、立派な歴史資料館(中味はまだ整っていないようだ)に立寄り少し話を聞いた。隣に古いが見事な屋敷がある。昨年の
佐用町大水害で5棟あった土蔵のうち3棟が流されたと言う。濁流は佐用川とその西から流れ込む幕山川ばかりではなく、数キロ
離れた千種川の合流点から千種川の水が逆流してきたという物凄さである。佐用川の水位は8mも上がったそうで、人口2万の町
で20名の犠牲者が出たという。心からご冥福を祈りたい。
                                   記:紀伊埜本節雄 写真:小椋勝久、紀伊埜本博美

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