一般例会No.251 鵯越(ひよどりごえ)を巡る山々 例会記録
概要 『源平合戦・義経逆落とし第2編です。鵯越から平家一族の本拠である福原京・雪見御所を目指して探訪します。
 ハイキング+歴史探訪No.19。』

夢野台と烏原池を分ける尾根 その末端部
にある切通し 岩盤をノミと手斧で刻まれた
跡が鮮やかに残る いつ誰が切ったものか
日時 2011年10月30日(日)小雨決行
天候 曇りのち雨
担当 紀伊埜本節雄・小椋勝久
集合 阪急梅田3階改札口 8:00 (新開地行き特急8:20乗車)
行程 神戸電鉄・鈴蘭台駅〜烏原貯水池周辺〜逆落としを探る〜雪見御所跡〜新開地駅
参加者 和田敬子、杉本栄子、寄川都美子、三原知未、三原博子、欅田克彦、横内まみね、
田中智子、松本明恵、西村晶、紀伊埜本博美 ・・・ 計13名
     


神鉄鈴蘭台駅前から君影町周回バスに乗る¥150で住宅街
を40分は短縮出来る 鈴蘭台駅着9:20バス9:30発
 

「陸橋下」バス停を少し南に上って57号団地の裏側に登山
口がある イヤガ谷東尾根コースと標識にある 今日のコー
スでこの付近が一番標高が高い366,8m  9:47


穏やかな森の中を行く 高低差がほとんど無い快適な尾根道
を行く 人馬の通過に障害はない  10:10 


東に踏み跡をたどって妙号岩まで寄り道をする。但し岩頭
からは眺望を楽しむだけ 新しく出来た石井ダムが足下に
ある 対岸に菊水山ルンゼが見られる 10:21


元の穏やかな尾根道に戻る やがてパッと前方が開け神戸
の街と海が鮮やかに浮びあがる 印象的だ 義経もこの辺
りから初めて福原京を眺めたことだろう 10:53


鵯駅からの分岐点に着く ここは烏原貯水池畔の林道であり
六甲全山縦走の通過点 曇天の為か人影はない 11:21


貯水池の周囲は快適な散歩道 立派なトイレの他にテーブル
付きの木製ベンチ 昼食のあと特製大地図と概念図を広げて
源平合戦の逆落とし論議がワイワイと拡がる 11:55


昼からもうワンピッチ核心部を行く 鵯越えから東に続く
尾根に向かう この尾根の南側は急激に落ち込み そこに
夢野台が在る 地蔵広場の横の小沢から入る 12:16

尾根は樹木に覆われているが 狭くて急峻だ12:45
 
ひよどり展望台への分岐点 この尾根の最高点(214m)
でもある 義経の戦術は平家軍の目をこの地に向ける陽動
作戦 義経自身は密かに戦線を離脱し 雪見御所の背後に
迫る 827年前の2月7日の出来事 13:02
 
 
 最高点の東側直下にある福寿院夢野大師に間違って迷い
 込む O君は平氏の家紋揚羽蝶の墓があると興奮気味
 
 
元の尾根に福寿院の墓場を通って戻る 小雨が始まった
小椋君の平清盛論を聞く 格調高く面白い 13:23
 

尾根の東端近くで貯水池ダムに下る このダムは明治37年
建造 日本で4番目に造られたものとある  13:49 
 
 
  小雨に煙る烏原(からすはら)貯水池 満水で美しい 
 
大山咋神社 雪見御所の北面(背後の山側)の防衛基地だっ
た 神社の地所自体急斜面を削って造られたものだ 南側
も雪見御所まで見下ろすほど急斜面 ただ現存する住宅を
全部消去してみる想像力が必要だが 14;20
 

雪見御所跡の発掘地にある記念石 往時を偲ぶものは雪御所
とある町名とこの記念石のみ 清盛らの跡は小学校となる
新開地駅までバスで10分 雨はまた小降り 15:03
 
参加の皆さんに配布した概念図 にわか作りもよいところ
だが 少しは話しの足しになったかな 来年のNHK大河
ドラマは「平清盛」と聞く 楽しみにしましょう
 
雪見御所のある三角台地の先端部 左右から流れこむ2本
の谷川がこの先端で鋭角で合流し湊川と名を変える 浮び
あがった大艦艇のようで難攻不落自然の要害をなしている
     

 源平合戦・義経一の谷逆落としには謎が多い。なにしろ800年以上前のことだから、少々話しに尾ひれが付いても可笑しくは
ない。歴史上、そのとき平家が源氏に敗れたという事実の他は、全て想像の余地がある。前回の例会「須磨一の谷」はこれまでの
通説をただ確認するだけのもの、義経がそこで何らかの奇襲を行ったとは到底思えない。もっと辻褄の合う話しがあるはずだ、そ
れが「義経逆落とし第2編」につながった。(前回のコメント文を参照ください)
 今日は雨の予報であったが、午後2時過ぎまで空は泣き泣きもってくれた。予定のコースは終盤に向かい、大山咋神社(おおや
まくい)から雪見御所に下る坂道になってようやく本降りになった。この辺りが私の思う義経逆落とし、いや義経奇襲の現場であ
る。しかしそこはもう街のなかである。雪御所の地名は残されているが、それなりの想いをもって歩む人をのぞけば、何の変哲も
ない街の姿である。
 雪見御所(ゆきみのごしょ)は平清盛が福原京の要とした館である。だが清盛亡き後、この合戦の総大将平宗盛(清盛三男)は約
2キロ下った大輪田泊(港)を本陣と定めた。雪見御所は女、子供、女官たちの避難所となった。或いは、幼き安徳天皇、その母
高倉皇后、さらにその母清盛の妻時子が滞在していたかもしれない。義経はこの雪見御所を背後の山から奇襲したのである。逆落
としという表現は単に急な坂道を現すだけではない。義経の戦術は当時の合戦の常道(しきたり)を敢然として破るものである。壇
ノ浦の戦いでも、漕ぎ手を的に射てと命じたのは義経である。天才かそれとも異端児か、ともあれ義経の行動は常軌を逸し逆破る
ものである。謎とぎの鍵はここにあると思う。
 私たちは中井谷川と天王谷川とが合流する三角台地の南端まで歩いて行った。その先端は大艦の切っ先そのものである。雪見御
所は天然の要害に守られていた。しかし、振り返ると背後の山が迫っていた。火を放なされ、逃げ惑う女官や雑兵たちの駆け込む
先は2キロ下の大輪田泊の本陣と、その背後に備えた平家船団である。火はやがて黒煙となり騒ぎは増幅する。東に生田の森、北
や北西に広がる前線の兵士達は背後の本陣が襲われたと動揺するだろう。一つの綻びはやがてなだれを打って前線の崩壊をまねく。
合戦開始より2時間も遅れて参戦した義経、そのあとわずか2時間で壊滅した平家軍。西に約8キロも離れた須磨の砦は、東より
逃れてきた平家軍を逆に袋のねずみと化し、平敦盛をはじめ、多くの武将達の悲劇を生むことになる。これで私の辻褄は合う。義
経逆落としがあろうと無かろうと、義経の雪見御所奇襲によって勝敗は決したのである。義経の行為が是か非か、それは現代人の
論ずるものではない。
 逆落としの現場を求めて、私の神戸通いは下見の域をとっくに過ぎていた。平家陣営を巡り歩き、逆落としの幻影に惑わされ、
藪山から街へ、街から薮山へ幾度さまよったことか、笑止の沙汰と自分でも思う。それだけハイキング+歴史探訪は魅力あるテー
マである。コメント文はハイキングの内容を無視しているかに見えるが、決してそうではない。山歩きの足腰があっての歴史探訪
である。ハイキングの様子は掲載された写真からご覧下さい。
                               記:紀伊埜本節雄・写真:小椋勝久、西村晶、紀伊埜本博美

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