オプション例会No.90 岐阜・恵那山(2191m)と岩村城址 例会記録 |
概要 | 『恵那山に初見参します。残雪と天候次第できびしくも楽しくもなるでしょう。帰路(予備日) 悲運の女城主(美貌で知られた信長の叔母)が守る岩村城址へ、またとない機会です。』 |
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日時 | 2008年4月20日(日)〜22日(火) | |
天候 | 4/20 晴れ夕方から夜に雨 /21 晴れ /21 晴れ | |
担当 | 紀伊埜本(節)、秋田 | |
集合 | 4/20 JR大阪駅8:30集合、8:58発特急しなの9号乗車ホーム | |
行程 | 中津川駅(タクシ)⇒前宮ルート登山口〜前宮ルート〜中の小屋跡(泊) 〜恵那山山頂〜前宮ルート〜登山口(タクシー)⇒中津川駅⇒クアリゾートホテル花更紗(泊) ⇒恵那駅⇒明知鉄道岩村駅〜岩村城址721m〜恵那経由⇒大阪駅 | |
参加者 | 本郷、奥中、神阪(洋)、田中(智)、欅田、紀伊埜本(博) ・・・ 計8名 |
4/20 10:45 中津川より前宮ルートの登山口 にタクシーで到着 天気は快晴 |
川原で早めの昼食をとる のどかな春だ |
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12:05 しばらく歩いたあと対東沢で、今夜の泊まり場 1350m付近には残雪なしとみて各自2Lの水追加 ずっしりとくる |
12:59 五合目着 但し山頂迄二十合割り という ではここは二合五勺ということか |
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14:41 中の小屋跡に到着 狭い空き地あり 山カン当たる 深いやぶ尾根で他に泊まり場なし 超軽量テント二張 OK |
久しく味わっていない 乾燥食に今昔の想い |
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4/21 5:04 出発準備完了 前夜は2度にわたり雨と強風だったが今日も快晴だ 6:50 行者越え通過 7:17 空八丁 到着 未だ雪無し南西面に位置する為か 融雪が早いようだ |
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7:58 十六合目2,010m地点 主稜に上がり尾根が東を向いたところでいきなりどさっと雪面現る このあたりから山頂まで高低差の少ない幅広い尾根 北斜面は凄い雪 長い頂稜歩きが始まる |
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9:10 神坂ルート分岐点に到着 埋まっている標識は170cmの高さとか 前日にでも掘り出されたようだ |
御岳が美しい 乗鞍岳は霞み その北は見えない |
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台風の目玉が通過したのかと一瞬思う幅広 く樹木が薙ぎ倒されているだが実は50m ほど先になんとセスナ機の残骸が雪に埋ま っている。昨年の事らしい驚いた、あと数 メーター高ければ無事故かもしれない |
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9:42 一の宮 通過 雪がだいぶ腐ってきた |
9:56 山頂避難小屋に着く 備付けのノートに よると前日 地元山岳会の人達によって入口を 掘出し開放されたとか 見事に整理清掃されている 有難いことだ 理想的な避難小屋だ |
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中央アルプス 南駒ケ岳 空木岳方面 |
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10:17 2189m恵那山山頂に到着した 空はあくまで快晴 かわりに遠景は靄ってすっきりしない 11:00 山頂小屋から下山開始 もぐる雪に苦戦 テント場14:00 着 タクシーを予約していたので さらに下山 16:00 登山口に無事到着 本日の行動時間 11時間 皆さんよく頑張ると思う |
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4/22 予備日を有効に使う 鉄道マニアなら喜びそうな明知鉄道岩村駅 ザックを預けようと駅長を捜すうち軽トラで出勤されてきた |
太鼓楼前の満開のさくら |
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武者達が駆け登り 駆け下ったで あろう城壁のある坂道 右は 本丸を守る七段構えの城壁 激しい攻防戦のあったところだ |
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本城址も我々でほぼ借り切り状態 昨日の奮闘で脚はバリバリなれど 心は満ち足りて春うらら 皆さん いい顔していますねえ ほんとに |
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例会登山のGPS記録 | |||||
E.P.E.的な発想がなければ、恐らくこの山には登る機会はなかったと思う。まだ知らぬ山に登ってみたい、それもベストシーズンに。 選んだ前宮ルートは、かのウエストン卿が登ったクラシックルート、長らく廃道になっていたのを地元の山岳会の努力で近年再開されたと いう。さすがに人の気配は少なく、踏み荒らされた跡もない。大型連休の前とはいえ、この日は山頂で別ルートから来た一人と出会っただ け、超過密の百名山とはとうてい思えぬ別世界だった。そのうえ天気運にも恵まれた。深い残雪に覆われた樹林は、まるで穏やかな表情を 浮かべ眠っているかのようだ。予期した通り、この山の素晴らしい一面に触れることが出来たのがうれしい。でも、下山時は少しパワフル だったかな,なにしろ平均年齢00歳のパーティですから。予備日は岩村城址を巡ると決めてあった。駅から山へ、山から駅へ、ただ一直 線上しか知らなかった頃の罪滅ぼしか近頃やたら回り道が多い。恵那岩村は戦国大名武田、織田、徳川、三ケ国の国境に位置する争奪地点。 美貌の女城主 織田信長の叔母は、戦いの果て甥信長の手によって夫 秋山信友と共に逆さ磔に晒された悲運の人。またその信長とて、そ の後わずか三ケ月にして本能寺に果てる数奇な生涯―――。われわれはといえば、前日の心地よい疲労感のなか、ただうららかな日を浴び て標高721m、日本一高い山城にほろほろと登る。この閑疎な城下町のどこに激動の日々があったのだろうか、遅咲きの桜をめで、手打 ちのうどんを食い、旧家の奥座敷に案内を乞い、やっぱり安泰が一番かと悟り合う。「老いて学べば即ち、朽ちることなし」地元江戸期の 大儒学者 佐藤一斎の名句を案じながら有意義な予備日を過ごしました。 記:紀伊埜本(節)、写真:奥中、秋田、紀伊埜本(博) |
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