一般例会No.336

鈴鹿・鍋尻山(838.3m)例会記録

概要

『鈴鹿北部のカルスト(石灰岩台地)地帯の山です。北の山麓には河内の風穴という大きな鍾乳洞があります。山を越えて南の台地には保月という廃村があり、西に至れば杉阪峠、東に向かえば五僧峠と、この道はかって岐阜から近江に抜ける間道でした。アッと驚く歴史秘話もあります。日本の山村の原風景を感じます。』

日時

2013年11月23日(土・祝日)

天候

快晴

担当

紀伊埜本節雄、西村晶

集合

JR大阪駅中央改札口 7:10集合(7:30発 新快速乗車、米原経由 彦根)

行程

彦根⇒(タクシー)河内~鍋尻山~保月~杉坂峠~杉坂~八重練~多賀大社前⇒彦根

参加者

岩本和行、和田良次、和田敬子、藤田喜久江、和田都子、寄川都美子、小杉美代子、堀木宣夫、福田直也、安本昭久、安本嘉代 、近藤さとみ、保木道代、寺島直子、杉本栄子、片山純江、池田える子、紀伊埜本博美 ・・・ 計20名

この集落はアケンバラという。山の下に女と書いた字と原を並べて妛原(あけんばら)と読む。漢字源辞書には意味不詳、滋賀県に妛原(あけんばら)という地名ありとあった。つまりこの字、妛(あけん)はこの集落固有の文字ということだ。

9:50 家屋は数軒あるが道はこの先で閉鎖されている。橋を渡ると無住の家屋が1建だけ、付近に登山口など見当たらない。地図上で鍋尻山から北西に伸びる支尾根の突端から妛原(あけんばら)までを結ぶ破線がある。これが唯一の頼りである。

取り付きを求めて川原をウロウロした。同じ廃道でも元登山道と元集落の薪道とでは違う、道標が1本もない。そのかわり一段高みに上がると、苔生した石段の崩れにバラバラと出会う。かって幾十年か昔の、村人の生活臭がここ残っている。

尾根の突端に出た。河内集落からの破線の合流点である。細くて平坦な尾根は、崩れにくいのか明瞭な薪道が残っている。ホッとしてはじめて周囲の紅葉を愛でる。

しばらく尾根上を西に登ると、幅広く横に拡がる植林帯斜面に遭遇、薪道は失せた。20名の大部隊を控え、ウロウロしながらようやく薪道に再会、だがま又すぐに失せる。最後尾を行く西村君のGPSと私の山感を使い分け、何とか止まらずに進む。

地形の解説が続く、それだけ面白いと云うこと。鍋尻山の北斜面を登る。道も踏み跡も無い、真直ぐ登るにはきつい傾斜だが、落ちる程ではないので直上するほかない。お天気がなにより幸いだ。雨でなくても、ガスが撒いても初見の身には辛いところだ。

12:30 頂上着。「登りましたよ」という感じ、今日初めて見た立派な標識だ。但し標識は完全に南向き、北から登って来た者には裏の白無地を向けている。謎々?

山頂の集合写真、近頃めずらしい風景。皆さんご機嫌よかったのかな、それとも他に誰もいない独占山頂に満足したのかな?何だか山登りの原点をみた楽しさを感じる。山頂からブッシュを透して見えるのは霊仙山。眺望は山頂から一段下がった処が素晴らしい。鈴鹿山脈が北から南へ一望される。 

山頂から南へ保月に下る。北側に比べると大違い、迷わぬようにトラロープが誘導してくれる。どうやら保月~鍋尻山間は登山路が維持されているようだ。

保月(ほうつき)は廃村である。ただし夏期は集落の方数名が滞在され環境を整備されているようだ。道理でここは山村の現風景が漂う。1台の軽自動車の、村人らしき方と立ち話をした。アケンバラから路は無かったでしょうと、大部隊に驚かれた。

廃校となった小学校の便所、さすがに誰も拝借とは云わない。明治から大正、昭和の中頃まで保月には三百人以上の住人が豊かな生活を営んでいた。勿論その前の江戸期には、中仙道を避けて岐阜から近江に抜ける裏街道の宿場として栄えていたという。

村外れの地蔵峠に立つ三本杉の風景。村道の脇で思わず立ち竦む。まるでメルヘンの世界、子供の頃の夢のなか、見たこともない空想の舞台、それが目の前に現れた。白く光るのは、覆われた苔から頭を出した石灰石、カルスト台地の象徴だ。

保月から杉(廃村)~杉坂峠まで、ほぼ同じ標高の台地にある。かっての裏街道はご覧の通り細いながら車道である。さて、この車道は杉坂峠から大きく左右に迂回し標高を下げて行く、頼めば彦根からタクシーも迎えに来ぬ、こともないという。

ところで本日の例会の予定はこれからもう一勝負残されていた。杉坂峠から先は廃道といわれる旧裏街道を辿ってみようと決めている。裏街道は峠から西へ一本の明瞭な尾根筋を下り八重練~多賀大社に至る昔のままである。14:50、車道を離れた。

峠の下にある多賀大社の御神木。樹齢如何ほどか?

地図(25000/1)には午前中の鍋尻山と同じく破線が引かれている。が、この道は何百年、いや千年以上は続いてきた裏街道である。集落の薪道とは違う。しかし「ヘッドランプはすぐ出せるように」と云ったことから、皆さんの背に不安が漂う。

15:20 ハッとする光景に出くわす。思わず「止まって!」と叫んだ。ここまで落葉や枯れ枝を蹴散らし踏倒し、蜘蛛の巣を払って辿ってきた裏廃道に、忽如現れた本物の裏街道、タイムスリップしたのか?それとも映画のロケイションか?

西に向かう尾根道に夕日が赤々と輝く、空を見上げるとその顔が紅葉に染まるようだ。もう誰の心も穏やかで、落葉の舞落ちる音まで爽やかに癒される。何だろうこれは?何万、何十万もの人の足に踏み固められたこの道は、時代を超えた多くの人びとの思いが残されているのであろう。

道半ばで、行手に琵琶湖が現れた。9月の例会で登った奥島山とその横に浮かぶ沖島、その東には目には見えぬが信長の居城、安土城がある。

16:00 保月街道の終わりである。1時間ばかりの夢をみた。終わりに相応しい風景である。「生きてるて、ええことやなぁ」周りの人に同意を促す、私の悪い癖だ。

八重練の民家に日が沈む。故郷を想う人にはたまらぬ一瞬だろう。

16:50 近江鉄道多賀大社前駅に到着。灯がともりアッという間に暗闇になる。エレキ(ヘッドランプ)のお世話にならずによかった。歩数計は3万をとうに超えていたそうだ。

 うれしいことにこの日は終日快晴に恵まれた。しかし、1600年10月21日、天下分け目の関ヶ原合戦は小雨だったという。薩摩の島津義弘軍は負け戦と知ると忽然として東へ敵中突破を図った。その後どうしたのであろうか。義弘は20名ほどの側近に守られ、伊勢街道を南へ走るとみせて、霊仙山の南、五僧峠を越えて保月に至り、杉坂峠から多賀高宮に無事遁れたという。 壮絶な戦いの最中、一瞬の決断でこれほどの気概をみせた義弘はそのとき66歳だったという。この痛快な史実から、保月が私の胸中にじわじわと拡がった。鍋尻山はその副産物で申し訳ないが、同じやるなら参加者の皆さんと同じ初見で、同じ感動、同じ喜び、同じ一抹の不安を合わせ持つことに意義があると思いました。慌ただしい一日でしたが、いつの機会かまた、保月の向こうの五僧峠(廃村)への思いを果たしましょう。

記:紀伊埜本(節) 写真:西村(晶)、紀伊埜本(博)