一般例会No.745

狭山の天野街道から天野山金剛寺へ 郷土巡りシリーズNo.2 例会記録

概要

『天野街道から天野山金剛寺まで穏やかな丘陵を歩みます。しかし、この丘陵は和泉と河内の国を分ける列記とした分水嶺です。その列なる先はEPEでもお馴染の滝畑ダム左岸の尾根~ボデ峠~猿子城山~三国山へと続く分水嶺で且つ国境です。でもよく見ればこの丘陵に沿う一筋の天野川が、日本最古のダム池(約1400年前)狭山池を満たすほぼ唯一の水源です。和泉ではない河内とも云い難い狭間の里、それが天野街道です。サブザックで気楽に参加してください。但し、足元は軽登山靴が有効です。』

日時

2022年11月27日(日)

天候

晴れ

担当

紀伊埜本(節)、小椋(勝)

集合

9:00 南海高野線・金剛駅西側バス停2番乗場(9:10発泉ヶ丘行乗車)

行程

金剛駅⇒(バス)岩室~西高野街道・天野街道分岐点~陶器山~穴地蔵~天野山金剛寺(伽藍及び本坊拝観)⇒(バス)河内長野駅解散   実歩行時間(高低差ほぼありません):約3時間

参加者

前田、上野、中村、大森、西向、和田(敬)、喜多田、飯尾、中川、森本(善)、中原(俊)、中原(正)、小椋(美)、神阪、谷、佐野、秋田、紀伊埜本(博)・・・計20名

9:20バス停岩室着 5分ばかりのところに「右あまのさん 左こうやさん」の分岐を示す古い道標 西高野街道の起点は堺の大小路です その道筋に泉州山岳会のルームがあります

朝の挨拶と参加者の点呼 新しい顔触れが増えました 頼もしいかぎりです

小椋勝久EPE新代表の就任挨拶がありました 心機一転頑張りましょう

天野街道の案内板 陶器山の遊歩道です 古墳時代の須恵器の生産地でした

千年の道といわれる街道を往く 今は付近の住人の有力な散歩道です

下里の田畑 日本の原風景です 下里は金剛寺の寺領だったと思われます

天野川の最初の一滴からその恩恵を授かっています このような風景を心から愛でる私達 果たして進化したのか

街道の中ほど 燃えるような樹木の中を往く 現代の旅人たち

12:00青賀原神社着 平安後期の社の前 昼食を頂く

13:10 天野街道の終着点金剛寺 右手の白塀は本坊奥殿 左手の川は天野川の源流 前方には楼門が 食堂 金堂 御影堂と拝観しました

本坊奥殿の枯山水の庭 南北朝時代北朝の光厳 光明 崇光の三上皇と皇太子直仁親王が御座所とされていた 華美ではない座敷に菊の御紋を見た

奥殿の回廊を拝借 参加者一同一斉に瞑想する 何事も捉らわらず一言も語らず見ることも聴くこともしない そんな空間を私達は忘れずにいたい

平成の大修理で蘇った金堂 大日如来像など国宝を真近くで拝観できる

南朝の後村上天皇と北朝の三上皇の同居 歴史の摩訶不思議を見る思い

15:20天野山バス停 ここでの乗客は私達のほか誰もいない 紅葉の最中静寂とした大寺院をあとに解散した

 

 秋晴れに恵まれました。天野街道は予告のとおりほとんど平坦な丘陵を辿ります。

 お目当ては、平成の大修理を完成した金剛寺と美しい紅葉の見頃、そしてそこに至る街道の様々な歴史にありました。戦国の覇者北条氏直の痕跡は、残念ながらこの街道では直接目にすることは出来ません。しかし一方で、この地域は地政学的に大変興味のあるところです。天野山を起点とする細長い川の流れが、大阪南東部の広大な田畑を扇状に潤す、唯一の水源となっているのです。

 下里には『昔々、弘法大師が疲れ果てた虚無僧姿で一杯の水をある村で求めたところ素気無く断られたという。ところが、ひとつ峠を越えた下里の村では丁重に一杯の水を恵んでくれたという。弘法大師は「下里の水は神の水」とこの地に伝承を残しました』この話、実は下里で生まれ育った前田守さんが、今日歩きながら私に語ってくれたことです。

 弘法大師には水に纏わる逸話が多い様ですが「下里の水」は初耳です。この里の水を大事に扱う伝承が、弘法大師の名を借りて残されていることに驚きました。奈良時代に創建された金剛寺と、同じ時代に造られた日本最初のダム式狭山池は、その後幾多の治世者の手厚い保護を経て今なおここに健在です。「水の流れは政」それが大きな伏線となって、歴史は流れているものだと思いました。

 次回「郷土巡り」もまたよろしくお願いします。

記:紀伊埜本(節)写真:小椋(勝)