オプション例会No.211

敦賀・木の芽峠と城砦群、そして越前朝倉遺跡
歴史探訪シリーズNo.28+αNo.13 例会記録

概要

『近江と北国を結ぶ「木の芽峠」の歴史は、そのまま北国の歴史です。なかでも冬は雪に閉ざされるこの峠には、それ故に様々な物語が残されています。残雪の北国街道、その「木の芽峠」を南から北へと越えてみます。そして戦国大名、越前朝倉氏の遺跡を訪ねます。きっと素晴しい風景に出会うでしょう。』

日時

2015年3月28日(土)~29日(日)

天候

3/28:晴れ、3/29:曇りのち小雨

担当

紀伊埜本節雄、小椋勝久

集合

大阪難波・紀陽銀行前

行程

3/28 難波発⇒(貸切バス)名神敦賀IC⇒新保~木の芽峠~今庄スキー場⇒宿泊所

3/29 宿泊所⇒(貸切バス)越前朝倉遺跡~朝倉山城跡⇒名神今庄IC⇒大阪難波解散

参加者

大石隆生、村浪義光、松田芳治、欅田克彦、上原進一、安本昭久、牛山友幸、和田良次、村木正人、青木義雄、紀伊埜本博美、池田える子、和田敬子、村木とも子、寄川都美子、實操綾子、戸田晴子、喜多田恵美子、横内まみね、杉本栄子、高木恵美子、牛山恵美子、安本嘉代 ・・・ 計25名

新保のバス停です。ここが敦賀駅発新保行きの終点です。新保は新保村でも新保町でもないようです。敦賀市新保の集落です。人っ子一人見当たりません。

10分ばかりで水戸天狗党最後の陣屋が現れました。木ノ芽峠を巡る歴史物語は数多くありますが、今回は幕末尊王攘夷の先駆けとなった水戸天狗党の始末記に焦点を合わせました。

この陣屋は往時(150年前)のまま保存されています。屋内は2間続きの座敷からなり、この場で実際に武田耕雲斎、藤田小四郎、山国兵部ら幹部が投降の決意を加賀藩、永原甚七郎と交わしました。

参加者の皆さんの資料は吉村昭著「天狗争乱」です。事前に精読された方もこれから読まれる方も様々です。この事件は歴史の陰の部分で、壮絶な内容でありながら世上あまり知られていないようです。

11:00 新保の外れから峠の古道が始まります。天狗党は逆に峠から深雪を泳ぐがごとく新保にたどり着いたと伝わります。水戸から50日を超える苦闘の末に雪の木ノ芽峠を越えたのです。

畿内と北国を結ぶ最古の峠道です。源義経も新田義貞も信長も秀吉も、芭蕉も紫式部も北国を往来した者は全てこの道を歩みました。道そのものに風格があります。

今春は残雪が多いのでないでしょうか。初見の私共ですが、地元敦賀から参加された村浪さんも驚いていました。村浪さんは昨日わざわざ下見されたそうで、古い仲間とは云え感謝するばかりです。

峠道は北に向かって沢沿い進みます。右手(東)の枝沢にはびっしり残雪が詰まっています。ですが、実は私共はこの有様がうれしいのです。内心小躍りするほど素晴らしい気分です。

総勢25名のパーティは峠に近付くほど快適に歩み出しました。今日は土曜日だというのに一人の登山者にも出会いません。目の届く範囲で、我パーティは自由に楽しみながら登っています。

天狗党の悲劇はすっかり忘れていました。雪に不慣れな人も、雪こそ我が命と思う人も、雪道を踏みしめるリズムの心地よさにすっかり身を委ねます。

13:00 雪に覆われた木ノ芽峠に到着しました。峠には昔から続く茶屋と呼ばれた一軒屋が今も実在します。但しお茶屋さんではありません。右手に墓碑の頭と道標の上部が覗いています。

峠で少し遅れた弁当を開きます。空は抜けるような青空です。遠い昔、こうして弁当を開いたであろうあの方もこの方も、いったい何を思うてこの青空を見上げていたことか、うれしいような悲しいような想いに耽りました。

13:50 峠をあとに北西の主尾根を鉢伏山の山頂に向かいます。この尾根上に戦国期の城砦跡が次々と現れるはずですが、今日は雪に覆われ見い出す余裕がありません。

また黙々と雪に親しむスノーハイキングを楽しみます。雪はときに命懸けの苦しみを人に与えますが、ときに人が本来備えている野性や感性をうれしく擽ってくれます。

14:20 鉢伏山の山頂(761,8m)に到着しました。快晴無風です。敦賀湾が眼下に、その向こうに若狭湾が広がります。汗ばむような気温です。

登頂しましたと云う実感が湧いてきました。ほど良い残雪と快晴に感謝しました。

下山に向かいます。北東から東にかけて、白山から奥美濃の山々が驚くほど広範囲に目に飛び込んきます。これほど見事に見渡せる登山日和は本当に稀でしょう。幸運です。

鉢伏山の北東面は今庄365スキー場になっています。リフトは頂上直下まで上がっていますが、スキー場は先週から閉鎖になっています。この斜面も滑降コースの一部です。

 3月28日

今庄スキー場の駐車場に午後3時15分に下山しました。予定ではこのあと、江戸期の街並を残す今庄宿場の散策をすることになっていましたが、峠越えの登山が思わぬ充実したものとなり止むなく町の小さな造り酒屋に直行しました。天狗党の面々もこの宿場の美酒に至福の喜びを表したそうです。これを倣って天狗党への供養といたしました、嗚呼!

8:00 ホテルを出発しました。今にも降りそうな空模様のなか敦賀市内の天狗党の遺跡を訪ねました。ここは首領武田耕雲斎他352名が斬首の刑を受けたところです。今からわずが150年前のことです。

現存する鰊(にしん)倉庫です。これと同じ倉庫16棟に処刑前の天狗党ら800余名が過酷な監禁をされました。今では到底考えられない野蛮な行為です。

10:40 2日目のテーマ越前朝倉氏の遺跡にやってきました。三方を山城に囲まれた一乗谷沿いに人口約1万の城下町を造り上げた戦国の守護大名朝倉氏の栄枯盛衰が見どころです。

谷が最も狭い括れた位置に城門が築かれています。土塀と巨岩を積み重ねた虎口の形状です。谷川の流れから入り口ですが下城戸と名付けられています。約1.7キロの上部に上城戸があります。

城下町の総面積は278ha(約84万坪)です。朝倉義景が信長の追撃を受けて壊滅されたあと、この町は3日3晩焼き尽くされたと云われます。時代の革新者信長にとって此の地は無用のものであったのでしょう。その後、誰に再建される事なく今日に至りました。

日本のボンペイと云われる発掘は昭和42年に始まりました。街並みの区画は今見ても見事です。道路、屋敷の礎石、井戸、排水溝も、庭園もそのまま400年以上、塵灰に埋もれ田野となって残されたものです。

一部の区画に当時の町家、武家屋敷が原寸通り復元されています。想像を駆っしてこれを眺めるもよし、発掘のまま保存されるもよし、今日的にみれば歴史の一端がここに残されていることに感謝です。

一乗谷の左岸に町家、寺社、武家屋敷が配置され、右岸に領主ら一族の住まいがあったようです。画面は朝倉最後の領主義景の館です。内堀と土塀を巡らせた正面は唐門です。

 

 

発掘された街並みの復元平面です。整然と区画された町家の敷地に半割れの壺が8個並んで埋っていました(2段上左の画面)。そこは紺屋(染物屋)の跡と確認されています。いつの世もかくも人の営みは続くものものかと、ただ彷彿とした想いに佇みました。

 3月29日

朝倉遺跡とともにその背後の城跡、一乗城山(435.7m)に登る計画でした。しかし残念ながら雨天の為中止しました。その分ゆっくりと発掘された城下町を散策できました。

 「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷きてときのうつるまで、泪をおとしはべりぬ。」芭蕉、奥の細道の一節です。実りある1日でありました。

記:紀伊埜本(節) 写真:小椋(勝)、大石、紀伊埜本(博)